「こんな姿、もう二度と見たくない」
2021年2月24日14時52分、成田空港・国際線ターミナルの車寄せで・・・
「俺は営業とか嫌いなんだ。」
「付き合いとか、嫌なんだ。」
「営業なんかしなくても、俺の技術を求めて色んなところから人が来たんだ。」
技術開発者として90年代~00年代を生き、仕事人だった父は、よくこんな言葉を口にしていた。
確かに、思い返すと、社交的な父の姿は一度も見たことが無かった。

仕事から帰宅すると、常備している「サントリー角」を開け、たばこを吸い、家族とコミュニケーションを取ることは無い、いかにも「昭和の父」みたいな人だった。
それでも、私が「やりたい」と言ったことは何でもやらせてくれる。
6LDKもある家には車が6台もあって、不自由なく生活させてくれた。

物流倉庫くらいの大きさがあった工場で、巨大な大きな機械を前に、青い作業服を着て仕事をするその背中は、男としてカッコよく見えた。
「自分もいつか、こうなりたい!」
子供ながらに、そう思った。

生活の潮目が変わったのは2008年。世界的な金融不安を招いた「リーマンショック」。
父が経営していたのは従業員10名規模の機械製造の会社だ。下請け仕事が一気に減り、立ち行かなくなった末、会社は破産・倒産した。
家は売りに出され、借家へ引っ越し。
ギリギリのところで取引が残っていた中国で新しい仕事を得るため、技術力だけを頼りに、父は単身で中国へ飛んだ。
家族の為に。と、決死の想いだっただろうと思う。
憧れた背中を追って、機械工学専攻で大学への入学を控えた頃だった。

それから10年が経った2020年・・・
今度、世界を襲ったのは、未曾有のウイルス「コロナ」。
ギリギリのところで繋ぎ止めていた取引先との契約を失い、仕事が無く、ビザも切れ、やむなく帰国の途に・・・
またしても、世界を襲った経済の波に、飲み込まれてしまった父。

2021年2月24日14:52
緊急事態宣言、真っ最中の成田空港・国際線ターミナルの車寄せ・・・
到着ロビーの扉から出てきたのは、グレーのスーツケースを転がし、一文無しになった父の姿だった。
あの時に憧れた姿とは程遠く、一文無しになった、痩せ細った変わり果てた父の姿だった。

そして、悟った。
どれだけ優れた技術があったとしても、
どれだけ豊富な経験があったとしても、
その技術を、その経験を、
その考えを、その価値を、
誰にも伝えず、誰もに届かず、誰にも理解されなかったら、本当に守りたいものも守れなくなるんだ。
と・・・

「誰でも話したい、考えも価値観も共有したい、もっと話を聞かせて欲しい。」
父と対照的な性格だった私は、空港からの帰り道に、ふと思った。
「もし、今の自分が、当時のあの会社に居たら、違う今があったかもしれない。」
少しばかりの営業力と、相手の話を深堀りできる傾聴力以外に、誇れる経験も武器は何もなかったが、ただこの一心で、起業することを決めた。

「目の前の人の可能性を見つける・広げる・繋げる」
そんな部分に目を向け、知識と技術を磨き続けようという心の根底にあるものは、
「俺は営業とか、人付き合いとか、嫌いだ。」
「俺はそういうのは嫌だから、誰かに任せたいけどな。
俺の考えを誰かに言ったところで、誰にも理解されないと思ってる。」
そう言いながら、一文無しになった父のようになる人を、もう二度と生まないようにしたいから。
その人が辿った歴史と、そのサービスが持つ価値と可能性を見つけて、求める人へと繋げること。
その為だけに、目の前の人と、今日も向き合い続ける。
これが、Re-Brandingの原点。
